ひかりの森内科クリニック

自分の意味、生きる意味は・・・



 皆さんも人生一度は考えたことがあるでしょう。「自分とは何だろう?」「生きている意味って何だろう?」「この世界って何だろう?」「死んだらどうなるのだろう?」なんてことを。比較的子供の頃、物心がついた頃、急にこのような疑問が頭をもたげ、「自分が消えてなくなる」不安に居ても立ってもいられなくなった経験をお持ちの方もいると思います。わたしもそうでした。大人になってから、人生が少しうまくいかなくなったときに、考えることもあるでしょう。さて、これらの疑問に答えは見つかりましたか? 学校では教えてくれません。書店に行けば、いろいろそれらしきことを書いた本は見つかるかもしれません。宗教に答えを求め、安心を見つけるかもしれません。でも、これらのことに「正確」に答えられる人は絶対にいません。なぜなら、誰も見たことがないからです。わたし達は、あらゆることに「答え」があると思って生きてきました。学校で学ぶこと、社会に出て学ぶこと、そのすべてに答えやルールがあり、「正しい」とされるゴールが見つかりました。しかし、これらの質問にゴールはないのです。

 わたし達は、宇宙という空間の中、現在という時間の上に暮らしています。将来、空間をワープできる高性能な宇宙船ができて、数十万光年も離れた星を探検できたとしても、宇宙の外に出ることはできないのです。宇宙を外から眺めることは、決してできないのです。同様に、時間の束縛から逃れ出て、時間の流れを河のように俯瞰することも、決してできないのです。わたし達は「井の中の蛙」です。井戸の中をいくら細かく探検することができたとしても、井戸の外に広がる世界は、決して見ることができません。井戸の中にしか暮らせない以上、外の世界の真実を目で確かめることはできません。だから、誰も「答え」はわからないのです。でも、目で見なくても「答え」を類推することはできそうです。なぜなら、井戸の中だけが特殊な世界ではないからです。井戸の中も、井戸の外も、同じ法則でできた「世界」でありましょう。太陽を回る惑星の軌道は、原子における電子の軌道のようです。わたし達の体の中に張り巡らされた血管は、道路のようであり、血管中の白血球は、治安を守る警官のようです。マクロ、ミクロの違いこそあれ、そこに展開する世界は、奇妙に一致しているのです。シュレディンガーに始まる、近年の量子力学の発展は、今までの物理学の常識を覆そうとしています。物質とは、超ミクロのヒモの波動(振動数)であること。物質の位置は確率でしか表すことができず、観測者によって初めて座標がわかる、まるで幽霊みたいな不確定な存在であること。岩や鉄などの硬い物質も、原子・量子レベルの世界では、すかすかの空間が広がっていること。それはまるで宇宙空間ですね。わたし達の常識は、非常識になりつつあります。ちなみに、太陽活動や地球の地磁気活動(地球が発する周波数=シューマン共振)と、なんと人間の自律神経のリズムが同期していることがわかってきています。(これも振動数という概念が大事になってきます)


 井戸の中を詳しく調べると、そこは想像を超えた「非常識」の世界が広がっていた。何も宇宙の果てまで探し物を見つけにいかなくても、ミクロの世界に探し物は眠っていた。同じように、井戸の中の世界を基本に、井戸の外の世界を類推することは可能だと思うのです。目で見えたものも不確かなものと考えざるを得ない以上、目で見たことだけが正しいとは限りません。しかし、これには「答え」がないのです。その代わり、この世はすべて何らかの「法則」に基づいているように、実はこの世もあの世をも貫く宇宙の法則と呼べるものが、必ずあるはずなのです。


 生きている意味は、お金をたくさんためて好きなことをすることでしょうか?、また友達と楽しく遊ぶことでしょうか?、仕事に精を出して一生懸命働いて生きることでしょうか?、ボランティアに意義を見出すことでしょうか?、とにかく楽しく笑って暮らすことでしょうか? これらはすべて正しいと思います。でもちょっと考えてみてください。お金を使う相手は?、相手となる友達は?、仕事の相手は?、ボランティアの対象となる相手は?、彼らはいったいどこにいますか? 量子力学では、観測されて初めてその存在が明らかになるとしています。相手を観測するのは自分です。自分を観測するのは相手です。もし世界に自分が一人だったら、自分は誰からも観測されませんので、果たして自分は存在しているのかどうか曖昧なことになってしまいます。なんだか不思議ですね。太陽や地球も、生命が誕生するまでは、観測を行う相手がいなかったので、存在していなかったといえるかもしれません。世界は、わたし達を通してこそ存在する世界なのです。

 私なりの答えを少しお話しましょうか。過去の哲学者や詩人も、大いなるヒントをくれているのです。西田幾多郎「絶対矛盾的自己同一」「不連続の連続」「絶対無」、金子みすず「見えぬものでもあるんだよ、見えぬけれどもあるんだよ」「みんな違ってみんないい」、そして量子力学は、これら哲学、思想、または宗教の領域に接近しつつあります。「有」に対する「無」の必然、「無」に対する「有」の必然。そして、「有」を「有」たらしめるための存在の必然。この弁証法的対立による存在の確定が、わたし達の生きている意味に近づく答えのような気がします。「無」から「有」までの茫漠とした世界の存在の一部かつ必然として、わたし達は存在するように思うのです。なので、すべての命に無駄なんてありません。どの命も、「無」の対極にある「有」の世界を作る、愛されるべき必然の存在なのです。


 なぜ他人を傷つけてはいけないか、生き物を粗末に扱ってはいけないか、・・・学校の先生も説明に困る、当たり前のようで難しい、この疑問に対する論理的な答えは、この考え方により、整合性を持って示され得るのではないかと思われます。


 でも答えは、皆さん一人ひとりで、見つけていってくださいね。その答えが自分の中で、一本の道筋となって時空が一つに繋がるとき、井戸の中は井戸の中にして、而して井戸の外になるのです。宇宙の中に生き、而して宇宙の外に生きるのです。現在に生き、而して時間を超越して生きるのです。あなたはあなたであって、あなたでない。私は私であって、私でない。あなたは私、私はあなた。有は無、無は有。ただそこにあるのは「絶対無」・・・。


 なぜ今、自分は苦しんでいるのか。苦しみの原因は何なのか。そもそもなぜ苦しまなければならないのか。
 楽しい自分は、死んだらどこへ行ってしまうのか? この幸せな生活は、いつか終わりを迎える。それは知っている。でも、その先は・・・? 楽しさ、幸せ、に永遠はないのだろうか? 苦しさにも永遠はないのだろうか?


 「自分とは何か」「生きるとは何か」「世界とは何か」。これらの疑問(=不安)に、いつか答えらしからぬ答えが見つかったとき、あなたの脳裏に一筋の「ひかり」が差し込み、自ずと洞窟の霧は晴れてくることでしょう。


 目が覚めたら、きょうもわたしは生きている。

 きょう一日、できることをやって生きていこう!
 あの空の向こうの下、あなたは、きょうは何をしていますか?




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